幽興斎葛葉は義経だった 〜「怜々蒐集譚」キノドラマ 考察と感想〜(ネタバレ)
舞台「怜々蒐集譚」観てきました!
私にとってはすごく面白かったです。
しかしその面白さの中にはめちゃくちゃわかりにくい部分があるな!?とも思いました。
いや、わかりやすい部分もたくさんあるのですが!
わかりにくいというか…これ読み解くのにめちゃくちゃ教養が必要なのでは…?という部分があるのです…特に一幕の話。
理解できるとめちゃくちゃスッキリするんですこれ。というか今それを言いたくて仕方がないんです。ネタバレですけど。
ということでここから先は完全に観劇した人向けのネタバレ記事です!
ぜひ観劇してから読んでくださいね!!
「怜々蒐集譚」キノドラマは原作の「其は怜々の雪に舞い」と「狐火の女」の時系列を入れ替え、構成を変えて組み直しつつ、削るシーンは削り、必要なシーンを追加した物語になっています。
その構成の組み替え全てに意図があるんだろうな、というのは舞台を観ていてなんとなく感じられます。
しかしそれが「どういう意図」なのかはすごく…わかりにくいのです…
私もいろいろ調べてようやく、ちょっとわかってきました。
いや、私がわかったと思っているのはほんの一部なのかもしれません。
ただその、私が理解した部分だけでも「これめちゃくちゃ教養がいるな!?」と思います。
私も教養全然ないので…めちゃくちゃ調べました…
ということで、表題「幽興斎葛葉は義経だった」について、順を追って説明していきたいと思います。
- 二幕・原作にない葛葉の追加シーン
- 葛葉が教えるセリフは「義経千本桜」の一節
- なぜ葛葉はこのセリフを教えたか?
- 役者志望の子の正体は犬の「百」ではないか
- なぜ吉乃の姿ではないのか
- 「タスキが短い」の意味
- なぜ芝居小屋に百がいるのか
- 手を叩いて百を呼ぶ=鼓を叩き狐を呼ぶ
- 「女と見まごうほどの美青年」であり「布を被っている」葛葉
- 「役者に向いている」資質
二幕・原作にない葛葉の追加シーン
二幕の途中に、少し唐突にも思える葛葉の追加シーンがあります。
役者志望の少年?らしき幽霊に、歌舞伎のセリフをひとつ教える、というシーンです。
実はこの、教えているセリフこそが一幕の謎を解く鍵になっています。
そう、このシーンこそが一幕の中心となった物語「狐火の女」の本当のラストシーンなのです。
私も歌舞伎には全く詳しくないので、うろ覚えしたセリフの一部をググり、めちゃくちゃ調べました。
そして発見したのです、このセリフの意味を。
葛葉が教えるセリフは「義経千本桜」の一節
発見したのはこのページです。
【OGURA コラム】 義経千本桜 忠信編
http://www13.plala.or.jp/tukeuchi/tukeuchi%20top13.htm
三段目 「道行初音旅 吉野山」の段落にあのセリフがあります。
忠信「星満々たりと云えども月の光に勝つこと叶わず、ならば手柄にからめて見よ」
このセリフは「義経千本桜」で、義経の家臣である「忠信」に化けた「源九郎狐」が話す言葉だったのです。
なぜ葛葉はこのセリフを教えたか?
問題はそこですよね。源九郎狐のセリフを教える理由。
それは…この役者志望者が
「本当は人間ではないものが化けている」
ことを、葛葉さんが見抜いていたからなのではないでしょうか。
役者志望の子の正体は犬の「百」ではないか
そう、この舞台における人間ではない重要な登場人物、それは犬の「百」です。
まずこのシーンについて思い出してみましょう。
話の内容によると、葛葉が話す相手は最初、舞台用小道具の刀を構えています。
刃のない偽物とはいえ刀を構えている相手、しかも素人ですから、近づくのは危ないですよね。
なので、葛葉は少し離れたところで話しているようで、背筋を伸ばして話しています。
その後、おそらく相手が刀を下ろしてから、葛葉は相手に近づき目線を低くして話します。
しかしその話しぶりは犬相手に話している様子ではなく、人の子に話しているような内容です。
これはおそらく「化けているのは知っているが、気付いていないふりをしてあげている」のではないかと考えます。
なぜ吉乃の姿ではないのか
一幕での百は「吉乃」の姿に化けていましたが、なぜこの場面では違う姿なのでしょうか。
おそらくですが、吉乃本人の未練がまだあるうちは、その思いを借りることで百は吉乃になれた、ということではないかと思います。
吉乃の未練は、来島が墓参りをしてくれたことで消えたので、百は吉乃に化けることがもうできなくなっていたのでしょう。
「タスキが短い」の意味
葛葉はこのシーンの最初の方で、相手のタスキが少し短いのではないか、と指摘します。
これは、もしかしたら吉乃の首に巻いていた布を使っているのかもしれない、と思いました。
いくら子供の姿だとしても、タスキとして使うには少し短かったということではないでしょうか。
なぜ芝居小屋に百がいるのか
この場面で葛葉の芝居小屋に百がいる、ということの伏線がいくつかあります。
一つは吉乃が心中する相手を芝居小屋で探していた、ということ。
もう一つは百の化けた吉乃に逃げられた後のシーンです。
そのシーンで葛葉は小田原の医者に「今日は遅いので芝居小屋に泊まったらどうか」と誘い、医者もそうすると返事をしています。
そしてその後、医者は手を叩き、「おいで」と百を呼びます。
この行為によって百は医者に着いていき、芝居小屋まで来てしまったのでしょう。
手を叩いて百を呼ぶ=鼓を叩き狐を呼ぶ
医者、そして吉乃は百のことを「手を叩いて」呼んでいます。
「義経千本桜」で、源九郎狐は静御前が鼓を叩くことで呼ばれ、現れます。
上手く「義経千本桜」をオマージュしているようです。
そして「吉乃」という名前と、例のセリフが出てくる場の通称「吉野山」…
ここも上手く掛かっているなと思いました。
「女と見まごうほどの美青年」であり「布を被っている」葛葉
葛葉は登場シーンから「布を被っている」状態で「女と間違えられ」ます。
これは「義経記」などの創作における義経のイメージを被せているのではないでしょうか。
そして義経は褒美として源九郎狐に鼓を与え、葛葉は百にセリフを与えます。
セリフを与えられたことで百は成仏しました。
このシーンから私は、百が一番欲しかったものは「役目」だったのかもしれないと思いました。
生まれ変わった後にこのセリフを発するという「役目」を与えられたから、百は成仏できたのではないかと思います。
「役者に向いている」資質
ここからは、葛葉を演じる味方良介さんを推しているオタクとしての余談です。
役者志望の子として現れた百に対し、葛葉は「役者に向いている」と言います。
「これまでたくさんのものを背負ってきたから」
「背負ってきたものを一つも降ろさなくていい」
「役者はその全てが糧となるから」
といった旨の言葉を、葛葉は見えない相手に語りかけます。
いや…このセリフがめちゃくちゃ味方さんらしいんですよ…
まるで本人の言葉みたいで…!
前から思ってたんですけど、味方さんってファン目線でも見てて「この人めちゃくちゃ背負いたがりだな」って思うんですよね。
本当に、いろんな人の期待とか、これまで受け継がれてきたものとか、思いとか、いろんなものを自ら背負いたがっているように見える時があって。
たくさん背負って、一つも降ろさずに、板の上に立つ。
その姿がいつだってとても輝いているからこそ、あのセリフに説得力が出たんじゃないかなと思います。
そんなこんなで推しの演じる葛葉さんがめちゃくちゃ好きです!!という話でした。
いや本当…色々調べながらずっと「教養〜!!」って頭抱えましたけど…調べれば調べるほど「葛葉さん義経じゃん…好き…」ってなったのでよかったです!
ここまでめちゃくちゃ急いで書いたので間違いとかあったら気軽に指摘してね!!
お題箱とかマシュマロとかもあるしDMも今のところ解放しているので…
ほかにこんな考察もできるよ!とかも教えてもらえたらうれしいです。ぜひ。